日大アメフト・悪質タックルは「監督らの指示」! 宮川選手、記者会見の潔い対応は見事!それに比べて監督・日大は…?

日記

アメリカンフットボール競技としては前代未聞の悪質反則をした加害者宮川泰介選手は、2018年5月22日、記者会見し謝罪した。20歳に立ったばかりの若者としては、事態の認識が適切で潔い対応だった。宮川泰介選手の悪質なタックルは、きわめて危険であり許されないが、誤りに気付いたことを素直に認め、被害者と関西学園アメリカンフットボール部関係者に対して、実名と顔を出して謝罪した。




宮川選手の事件に対する認識は極めて的確で、自分の行為を客観的に捉えており、また、記者からの意地の悪い質問にも的確に答えていたのが印象的だった。

彼は、アメリカンフットボール競技でも日本代表チーム員に選抜されるほどで、これほど冷静で客観的な判断ができる学生が、どうして悪質な反則が出来たのかが不思議でならない。

 

それに対して日大アメフト部元監督、内田正人氏の言動は保身ばかりが目につくが、「責任を取る」との言葉も意味不明である。こうした不明瞭な言動は、「財務官僚」「政治家」「スバル燃費データ報告書」などにも見られる、「法的立場確保の姿勢」と同じ質だ。

 

大学プロモーションとしての学生スポーツ

半世紀以上前から学生スポーツは、大学の名を広めるために利用されてきた。古くは「六大学野球」「首都大学野球」などだ。その流れの中にラグビー、サッカー、アメフトなどもあり、大学にとって学生スポーツは「広告塔」の役割がある。

そのため「勝利が必須」との認識が、日大アメフト部内田監督にもあったのであろう。このコマーシャルリズムの弊害は近年大きくなってきたと感じる教育機関としての役割を忘れた日本大学の経営姿勢が、今回の事件では極めて不愉快だ。

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未だ(2018・05・15現在)に日大は、大学としての姿勢を示せず、組織としての管理状態は最悪である。何より悪質な反則を行っていながら組織的動作が出来ない醜態は情けない。教育機関としての資格はない。早急に対応すべきだ。

 

モラルを欠く行為は「脳機能障害」?

あの反則行為を、内田監督とコーチ陣が「指示」「指導」あるいは「許容」している行為は尋常ではない。命の危険が考えられる中で、被害者の立場を考えられない内田監督の様子は、尋常な感覚ではない。

「すべての責任はある」と内田元監督は発言していたが、一方で「謝罪」が極めて遅かった。記者会見の姿を含めて、その「人格」を不審に感じる。監督としての立場、教育機関の大学経営者としての立場からは、到底考えられない言動だ。記者会見の様子からも「謝罪」など、社会の人間関係を理解できているとは思えない。

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こうした人格を疑われる人物の言動は「危険」さえ伴うので、所属する企業などの組織としては責任体制を考えなければならない時期だ。現在の会社組織においても、考えられない人物が見受けられる。また、人間性を疑われる言動は、官僚、役人、医者、弁護士、経営者など「社会的身分の高い人物に多く見られる」との研究もあり、社会としては対応できる法整備を進めるにも、「人格障害」の概念を整理すべきであろう。

 

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中には連続殺人など非道な犯罪に結びつく危険もあり、事前に防御できる制度の必要が考えられる。それには、まず「心理学」と「脳科学」の認識の違いを整理整頓すべきであろう。また「精神科医」に限らず、「医者」「弁護士」などで「人権」に関わる恐れの多い「専門的職業」の免許制度に「人格障害」の検査を義務付ける客観的制度が必要であると思われる。政治家や経営者の資格も、資格制度を作る必要性すら考えられる。

人格障害者は、同時に天才である場合も多く、社会制度として対応するには「補助者」を必要とする体制で、天才の能力を生かすことも考えるべきであろう。

 

ヒトラーを忘れるな! 隠れた人格障害に対応するには?

それら高学歴で専門的分野の人々に隠れた「人格障害者」が多くいるとの研究もある。

その人たちの人格は「他人の立場が分からない」「他人の気持ちを思いやれない」ことが特徴で、一部の能力が高くても、社会的地位が高いとなると社会全体に危険が生じるからだ。

世界の人々は「ヒトラー」を忘れたのであろうか?  民主的組織運営を嫌う人々が、現代日本の大学経営陣に存在してよいはずはない。

 

現在の法制度では、「人格障害」は本人が医者の診断を受けて、医者が詳細な検査をもとに客観的に判断することが必要だ。しかし、問題は「本人の自覚」がない限り「診断」を受けることがないことだ。

例えば「自己愛性人格障害」であろうと考えられる人物は、むしろ社会的地位を得られることが多いとみられるのだ。その時は「人権侵害」などの危険が多く、傷害事件などにならなければ発覚しないことも考えられる。

そうして潜在している人格障害を早期に発見し、本人が自覚しやすいシステムを構築して、悲劇を繰り返さないようにしなければなるまい。悲劇を生まないために、一刻も早く「人格障害」の概念を、社会システムに組み入れる工夫が必要だ。