日産GT-R物語①|スカイラインからR35最終章までの50年史

スカイラインハードトップ 2000GT-R 1972年 日産とGT-R物語
スカイラインハードトップ 2000GT-R 1972年

第0章:プリンス時代のスカイラインとスポーツモデルの系譜

あえて”0章”

― 技術と美学が交差した日産GT-Rの“前史”

プリンス自動車の誕生と思想

1952年、戦後の航空技術を背景に誕生したプリンス自動車工業は、戦前の先端技術である航空機メーカーの技術者が集まって作った、単なる自動車メーカーではありませんでした。

プリンス自動車は、中島飛行機と立川飛行機という二つの航空機メーカーの技術者集団が合流して生まれた自動車メーカーでした。

特に、戦闘機「隼」や「疾風」で知られる中島飛行機の技術者たちが担っていた、「栄」「誉」などの当時の世界水準にあった高性能航空機用エンジンの開発技術は、プリンス車の高い性能と独自の技術力に大きく貢献していたと思われます。

ケンゾー
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中島飛行機の栄エンジンといえば、だれでも知ってる零戦や隼にも搭載されていたよね。これが、プリンス自動車の話からGT-Rの話までつながっているんだね!

つまり、「栄」や「誉」で培われた軽量化・高回転・冷却・燃焼制御のノウハウが、戦後日本の自動車エンジンにしっかり受け継がれるんだよね。

これが、同じく中島飛行機をルーツに持つスバル(富士重工業)と並んで、「飛行機屋」と呼ばれた理由でした。スバルが開発した初の軽自動車「スバル360」は、その構造は当時の車体構造にはない「モノコック・ボディー」で軽量化が進んでいたのです。

これは、はしご型フレームを基礎にして、その上にボディーを載せる構造より、同じ重量では軽く作ることができる構造でした。
はしご型フレームは飛行機の構造で、零戦などと同じ構造だったのです。

そのような航空機開発で培った精密技術と設計思想を自動車に転用し、プリンス自動車は「技術のプリンス」として知られるようになってきます。
彼らの目指したのは、車という単なる移動手段ではなく、いわば“走る工芸品”とも考えられるものでした。

ケンゾー
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なるほど「走る工芸品」か~!現在のGT-Rもそういえるよな~。歴史は続いてるんだな~。

初代スカイライン(ALSID-1型)の登場

1957年、プリンス・スカイラインALSID-1型が登場します。

1.5L直列4気筒エンジンを搭載し、セダンとしての実用性と上質な乗り味を両立。
当初の出力は、ライバルのコロナやブルーバードと同程度の60ps、G!エンジンで70ps程度でしたが、G15エンジン搭載で88psとライバルからも抜きんでた性能を誇っていました。

プリンス スカイライン デラックスALSID-1型 1957年
プリンス スカイライン デラックスALSID-1型 1957年(引用:日産自動車公式サイト
日産: NISSAN HERITAGE COLLECTION|プリンス スカイライン デラックス
これまでに日産が生み出してきた、300台以上の名車・旧車がご覧いただけます。今ではなかなか見ることのできない希少な一台も、車種名や年代から簡単に検索できます。

初代スカイラインの試作車「スカイライン1900」(BLSI-1型)は皇太子(後の上皇陛下)が愛用したことでも話題となり、スカイラインは“品格ある国産車”としての地位を確立していきました。

スカイラインスポーツ(BLRA-3型)とミケロッティの美学

1962年、スカイラインスポーツが登場。

イタリアの名デザイナー、ジョヴァンニ・ミケロッティが手がけた流麗なボディラインは、当時の国産車にはない芸術性を備えていました。
2ドアクーペとコンバーチブルの2種が存在し、フロントグリルやリアフェンダーの造形は、まるで彫刻のような美しさを放っていたのです。

プリンス スカイライン スポーツクーペ BLRA-3型1963年
プリンス スカイライン スポーツクーペ BLRA-3型1963年(引用:日産自動車公式サイト
日産: NISSAN HERITAGE COLLECTION|プリンス・スカイラインスポーツ・クーペ
これまでに日産が生み出してきた、300台以上の名車・旧車がご覧いただけます。今ではなかなか見ることのできない希少な一台も、車種名や年代から簡単に検索できます。

当時の日本は、クルマのデザイン技術においてイタリアなどと比較して遅れていたため、イタリアのデザインスタジオに依頼することが、各メーカーに取り入れられていました。
いすゞ117(カーデザイン界の巨匠、ジョルジェット・ジウジアーロ)、日産ブルーバード(イタリアの有名デザイン工房ピニンファリーナ)などの量産車にも多くみられました。

スカイラインスポーツ(BLRA-3型)
  • エンジン:1.9L G-2型直列4気筒(96馬力)
  • 生産台数:わずか60台前後(希少性が高い)
  • 価格:当時のクラウンの約2倍(高級車として位置づけ)

このモデルは商業的には成功しませんでしたが、プリンスの「美と技術の融合」という哲学を象徴する存在となりました。

スカイラインGTの前夜 ─ モータースポーツへの布石

1964年、日本グランプリでプリンスは「スカイライン1500(S50型)」のノーズを20㎝伸ばし、プリンスグロリアの6気筒2000ccエンジンを積んで「スカイライン2000GT(S54型)」を投入。

ケンゾー
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ポルシェ904との激闘は、日本車が世界のスポーツカーと渡り合えることを証明した瞬間だったよね!

プリンス・スカイライン 2000GT 1965年
プリンス・スカイライン 2000GT 1965年(引用:日産自動車公式サイト
日産: NISSAN HERITAGE COLLECTION|プリンス・スカイライン 2000GT
これまでに日産が生み出してきた、300台以上の名車・旧車がご覧いただけます。今ではなかなか見ることのできない希少な一台も、車種名や年代から簡単に検索できます。

この6気筒搭載モデルに当時コラムシフトミッションをフロアシフト3速のままで市販したのが「スカイライン2000GT-A」でした。この時レースに投入されたS54A型は、1.9L G-7型エンジンを搭載し、レース仕様のS54B型ではウェーバー3連キャブ、5速MT、LSDなどを装備。

この“スカイライン2000GT-B”こそが、後のGT-Rのレース思考の原型とも考えられる伝統の始まりでした。ロングノーズショットデッキのスタイルが高性能者のスタイリングであると日本で定着させた出来事でした。

ケンゾー
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さて、ここまでどうでしたか?
僕は技術屋なんで、本当は戦闘機エンジンから自動車エンジンへ受け継がれた技術について、具体的に言ってみたいのだけどね…。

ケンゾー
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次の第1章では、1969年に登場した「スカイライン2000GT-R(PGC10型)」の誕生と、“ハコスカ”伝説の始まりを描きます。GT-Rという名が初めて冠されたその瞬間、何が起きたのか。そして、なぜそれが“伝説”となったのか…です。

第1章:GT-Rの原点 ─ スカイライン2000GT-Rと“ハコスカ”伝説

― 勝利を宿した3文字「GT-R」の誕生

第1章では、GT-Rという名が初めて冠された「スカイライン2000GT-R(PGC10型)」の登場と、“ハコスカ”伝説の始まりを描きます。GT-Rの思想がどのように形を取り、なぜそれが伝説となったのかを掘り下げます。

1969年、GT-Rという名が初めて冠された瞬間

1969年2月、日産は「スカイライン2000GT-R(PGC10型)」を発表。

これは、プリンス時代から続くスカイラインGTの思想を受け継ぎ、モータースポーツでの勝利を目的とした“市販レーシングカー”でした。

ケンゾー
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余談ですが…「市販レーシングカー」といえば、現在のトヨタ・ヤリスがそうですよね。WRC(世界ラリー選手権)など世界中のモータースポーツで培われた技術を市販車にフィードバックした「GRヤリス」が人気となっています。

トヨタが市販レーシングカーを出すなんて、60年代には想像もできなかった(実用性重視だった)けど、豊田章男会長がモータースポーツ路線に変更して功を奏しているんだよね! これは昔の日産やホンダにあったビジネスモデルなんだよ。
この話、実は企業の経営戦略にすごく関わっているんだ。起業したいと思ってる人はよく勉強したほうが良いと思うけど、この話はまた別の機会に…。

スカイラインハードトップ 2000GT-R 1972年
スカイラインハードトップ 2000GT-R 1972年(引用:日産自動車公式サイト
  • ボディー:4ドアセダン(後に2ドアHTのKPGC10型も登場)
  • エンジン:S20型 2.0L DOHC 直列6気筒(160馬力)
  • トランスミッション:5速MT
  • 駆動方式:FR(後輪駆動)

このS20型エンジンは、プリンスR380レーシングカーのGR8型をベースにエンジンオイルをドライサンプからウエットサンプにしたり、ディチューンして開発されたもので、まさに“レースの血統”を持つ心臓部でした。

ミッションは当時の「ポルシェシンクロ」と言われた、素早いシフトに耐える「サーボシンクロナイザー」を備えた、これもレース仕様と呼ぶにふさわしい贅沢なメカニズムでした。

日産: NISSAN HERITAGE COLLECTION|スカイラインハードトップ 2000GT-R
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レースでの圧倒的な戦績

GT-Rは登場からわずか1年で国内レース50勝以上を記録。富士スピードウェイや筑波サーキットでの活躍は、GT-Rの名を一気に“勝利の象徴”へと押し上げたのです。

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• 1969年:富士GCシリーズで初勝利
• 1970年:2ドアHT(KPGC10型)登場、軽量化と剛性強化
     市販車としては後席の居住性を犠牲にしてまで、ホイルベースを短縮
• 1971年:ライバル車(マツダRX-3など)との激戦

この時代のGT-Rは、単なる速い車ではなく、「勝つために生まれた車」として、ドライバーとファンの心を掴んだのでした。この当時は、レースでの活躍が販売実績に直結する時代で、メーカー各社は、市販車をある程度改造することを許されたツーリングカーレースで勝つことを大命題としていたのです。

“ハコスカ”という文化的記号

「ハコスカ」とは、「箱型スカイライン」の略称で、C10型スカイラインの愛称。

GT-Rの登場によって、この“ハコスカ”は単なるセダンではなく、国産スポーツカーの象徴へと昇華していました。

そのシンボリックな呼び名は「羊の皮をかぶった狼」の象徴であったのです。当時は全面に闘志をむき出したスタイリングよりも、表面的にはさりげないセダンで、中身はスポーツカー顔負けの狼であることが「クール」、つまり「かっこいい」とされていたのでした。

「ハコスカ」の愛称は現代人の解釈とは少し違っていたのでつけられたものでした。

  • 直線的なボディラインと力強いフェンダ
  • レース仕様のオーバーフェンダーやロールバー
  • カスタム文化の起点としての存在(旧車イベントでも人気)

モデルチェンジ以前のスタイリングのほうが「ハコスカ」に相応しい箱型でしたが、なぜかこのスタイルになって、つけられた愛称でした。

ですから発表当時ではなく、レースで活躍する姿がマツダロータリー勢と比べると、いかにも箱型であったことからも、少し後に点けられたと思われます。

後にハコスカGT-Rは、走りだけでなく“美学”をも備えた存在として、今なお多くのファンに愛されています。

技術と思想の融合

GT-Rの開発陣は、「市販車でレースに勝つ」という明確な目的を持っていました。そのため、エンジン・足回り・ボディー剛性など、すべてが“勝利のための設計”で、技術も磨き上げられていきました。

つまり、さりげないスタイリング以外は、走る性能を追求していたのでした。同じ排気量で最大の出力を得るためS20エンジンは高回転型であり、現在の低回転トルクを重視したエンジンと比較すると、速く走れるのかは、運転手の腕次第となる部分が多かったのです。

  • S20型エンジン:クロスフロー構造+高回転型
  • サスペンション:前ストラット/後セミトレーリングアーム
  • LSD・強化クラッチ・軽量ホイールなど、レース仕様に近い装備

この思想は、後のR32・R34・R35型GT-Rにも受け継がれ、「GT-Rとは何か?」という問いに対する答えとなっていったのです。

そして見逃してはいけないところは、部品はスカイライン、ローレル、ブルーバード、フェアレディ―などと共通させて、コストダウンを図っていたことです。
「若者にも走る楽しみを味わえるように」とした、現在のGR86などと同様なコンセプトも持っていたのです。

ケンゾー
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部品の共通化は、これも自動車製造業として経営戦略的な大事なことだね。
現在のトヨタのTNGAに通じるもの。このおかげもあって、トヨタは世界一の企業になっているんだ。

ケンゾー
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第2章では、GT-Rの系譜が一度途絶えた後、1989年に復活を遂げた「R32型GT-R」の衝撃を描きます。海外でも“Godzilla”と呼ばれているその存在が、いかにして世界を驚かせたのか。そして、電子制御技術がGT-Rを次なる次元へと導いた瞬間を追います。

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