日産・GT-Rは、世界中の自動車ファンから「日本が誇るスーパースポーツ」として高く評価されています。そのアテーサ4WDなど革新的な技術による圧倒的なパフォーマンスは、世界のトップブランド──ポルシェやフェラーリとも肩を並べる存在となりました。
しかし、GT-Rには、太平洋戦争で名をはせた隼や疾風など戦闘機技術から生まれた「原点」があります。
それが立川飛行機の技術者が立ち上げたプリンス自動車工業、そしてプリンス・スカイラインという名の、皇室ともなじみ深く、設計者櫻井眞一郎の名前を冠して語られる車種です。
本記事では、GT-Rの誕生に至るまでの軌跡を、レースとの関係を含めて、戦後の歴史をひもときながらご紹介します。
スカイラインの起源──1957年、富士精密工業から誕生

プリンス・スカイライン(初代)・ALSID-1
「スカイライン」という車名が初めて登場したのは、1957年のこと。
アメリカ占領軍の命令で解体された立川航空機の技術者が、生き抜くために立ち上げた富士精密工業(のちのプリンス自動車工業)から登場したスカイラインALSIS-1型がその始まりです。排気量1,500ccの直列4気筒エンジンを搭載した小型乗用車でした。
航空機製造の軽量化技術は、車では現代の「モノコックボディー」に通ずるもので、同じく中島飛行機の技術者たちが立ち上げた富士重工、後のSUBARUに見られています。富士重工が最初に手掛けた軽四輪自動車「スバル360」は軽量化のためにモノコックボディーを採用していました。
当時の日本では、まだ“自家用車”は一般的ではなく、スカイラインは公用・業務用車両としても活躍しました。
その後、「BC戦争」と言われた「日産・ブルーバード&トヨタ・コロナ」と同クラスの1500ccの排気量で、BCは70馬力でしたがスカイラインは88馬力まで出力をあげて、技術力の高さを示していました。
そして「サーフライン」など特徴あるデザインと、レースでの活躍で証明された高い走行性能が評判を呼び、スカイラインという名前は次第に人々の記憶に刻まれていきました。

一言!
最近は「サーフィンライン」と呼び名をいつの間にか変えてしまっているけど、当時は「サーフライン」なので…。(当時を生きたビジネスマンより)

この設計者櫻井眞一郎の名と共にかたられるスカイラインが、のちに「日産GT-R」へとつながる伝説の始まりだったのです。
皇太子の愛車として話題になった2代目スカイライン(1958年)

スカイライン・BLSID-3
1958年、スカイラインは排気量を1,900ccに拡大し、デザインもマイナーチェンジされた2代目スカイラインへと進化します。このモデルは兄弟車「グロリア」と共通のプラットフォームを使用していましたが、細部の意匠で差別化されていました。
この2代目スカイラインは、当時の皇太子(現・上皇陛下)が自らハンドルを握った愛車としても知られており、日本のメディアで大きく取り上げられました。近年、上皇陛下の若き日の映像がテレビで流れる際にも、スカイラインの姿が見られることがあります。
こうしてスカイラインは、一般車としてだけでなく、象徴的な存在としても社会に根付いていったのです。
スカイラインスポーツ(1962年)──イタリアンデザインの衝撃

BLRA-3 (スカイライン・スポーツ・クーペ)
1962年、スカイラインは思わぬ形で話題をさらいます。それが、イタリアの著名なカロッツェリア「ジョバンニ・ミケロッティ」によるデザインをまとったスカイラインスポーツです。
このクルマは、2ドアクーペとコンバーチブルの2種類が用意され、エレガントなイタリアンスタイルと日本製メカニズムの融合が話題を呼びました。

当時の日本車では、まだまだデザインでは世界水準とはいかなかったんですよね。
イタリアのカロッツェリアにデザインを依頼することが流行のようになり、日産・ブルーバード、いすゞ・117クーペなどいくつかの車種が発売されています。
量産車というよりは、ショーモデルに近い位置づけで、実際の生産台数もごくわずか。現在ではクラシックカー市場で3,000万円前後の価格が付くほどの超希少車となっています。
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スカイラインスポーツの登場により、「スカイライン=高性能と美意識の融合」というイメージが、さらに強化されていきました。
これには当時のレースを絡めた巧みな宣伝戦略もあり、スカイラインの知名度が定着していったのです。

現在のトヨタ・ヤリスみたいだよね。でも当時は、レースで勝つことが凄まじい宣伝効果を生むことは当たり前だったんだよ。
スカイライン1500(1963年)──GT-R誕生の種がまかれる

日産スカイライン1500デラックス
1963年には、次の大きな転機となるモデル「スカイライン1500(S50型)」が登場します。排気量1,500ccの直列4気筒エンジンを搭載し、ボディサイズも一新されたこのモデルは、スタイリッシュな外観と操作性の高さから人気を集め、プリンス自動車の主力車種となりました。
このスカイライン1500こそが、後にGT-Rへと進化するベースモデルとなるのです。
プリンス・スカイライン2000GT(1964年)──GT-Rのプロトタイプとも言える存在

そして1964年、モータースポーツで勝てるクルマを作りたいという櫻井眞一郎氏の情熱によって、ついに革新的な一台が誕生します。
それが「プリンス・スカイライン2000GT(S54型)」です。
このモデルは、スカイライン1500のエンジンルームを20cm延長し、より大きな直列6気筒2,000ccエンジン(G7型)を搭載。これは兄弟車である「グロリア」のエンジンでした。
車体前方を延ばして6気筒エンジンを搭載するという手法は、当時アメリカを参考としたもので、当時の社会背景を知っておく必要があります。
アメリカは第2次世界大戦の勝者として圧倒的な経済力を得ることとなり、一方、同じ勝者でもヨーロッパ諸国は戦場となった痛手があり、経済だけでなく軍事力でも、戦前の覇権国には返り咲くことはできませんでした。
太平洋戦争では、アメリカは勝者として日本に占領軍として進駐して、現在でも経済界、政界を裏で操る存在でもあります。
そのアメリカは、戦後まもなくは産油国であり、アメリカ国内では安い石油を背景に、「高出力を得たいのであれば大排気量とすればよい」との考え方が支配的でした。
一方のヨーロッパ諸国や日本は、「ハイメカニズム」という考えで、小排気量で大出力を得る方向でした。
このように、細かいことを気にするのではなく大胆な歩み方で世界を従えてきたという自負がアメリカ人気質の基本的スタンスなのです。
しかしやがて、石油ショックがあり、排気ガスの公害問題が取り上げられる社会情勢となりました。現在まで続いているように、排ガスが地球温暖化の原因とみなされる時代となって、アメリカの大胆な歩み方ではなく、日本のようなきめ細やかな歩み方が時代の主流となってきたのです。
この時代背景により当時、採用されていたのは「排気量アップによるパフォーマンス向上」です。
それで車体前方を延ばして6気筒エンジンを搭載するという手法が出てきたのです。
ただし、スカイライン本来のバランスを崩す形になったこのロングノーズ・ショートデッキのプロポーションは、当時の日本人にはまだ馴染みの薄いものでした。
しかし、その独特なシルエットこそが、のちのGT-Rの象徴的なスタイルへとつながっていきます。当時の多気筒大排気量エンジンを象徴するシルエットが、必然的に「ロングノーズショートデッキ」となったのです。
このプリンス・スカイライン2000GTは、当時の熱効率を考えたプリンス・グロリアの多球形ヘッドの6気筒エンジンを積み、バランスの悪いシルエットながら、1964年の第2回日本グランプリにおいて、ポルシェ904に食い下がる快走を見せ、日本中を熱狂させました。ここからGT-R伝説のプロローグが幕を開けるのです。
この日本グランプリではスポーツカーとツーリングカーとの区別もなく、混在するレースでした。後に日本でも市販車を前提としたツーリングカーレースが行われ、市販車の姿を止めたレースカーの活躍は、即、販売台数に影響したのです。
それは、現在のGRヤリスの活躍から得られる販売促進効果とは比較にならないほどの、販売促進効果が得られたのです。