【アイルトン・セナ(2)】運命のイモラ・サーキット~伝説のドラテク「セナ足」

アイルトン・セナ

セナとマクラーレン・ホンダを日本のF1レースファンは忘れないでしょう。ホンダがF1サーカスに参戦するようになり、第2次の黄金期を迎えたころです。ホンダのエンジンは他を圧倒し、マクラーレンは老舗のボディー・コンストラクターであり、両者のコンビは当時最強と目され、そこに天才中の天才と考えられていたセナが乗り、連戦連勝を重ねていきました。




☚【アイルトン・セナ(1)】運命のイモラ・サーキット

伝説のセナ足、究極のドラテク

セナ足とはなんなのか?簡単にいうと、アイルトン・セナにしかできない究極のドラテクです。

当時のF1ファンでないとわからないかも知れませんね。

そして、そのドラテクを際立たせる背景があります。

アイルトン・セナがデビューしたころ、ライバルであったアラン・プロストと強烈なチーム内の競争を演じます。

当時、「ジョイントNo.1体制」と言って2人、セナとプロストが同等のNo.1ドライバーとして扱われる体制だったのです。通常はどちらかがNo.1ドライバーとなり、優先して新型のマシンを与えられたり、テスト走行をこなしたりし、時にはレースでNo.2ドライバーはエースの援護に回ったりします。

しかし、このときセナは、プロストと同じマクラーレン・ホンダのチームであっても、レース中にプロストのマシンに衝突してリタイヤしてしまうほど競合していたのです。

「セナ足」という究極のドライビングテクニック

そんな時のセナのドライビングを見てみると、コース1周でプロストより平均して100~300回転ほどエンジン回転数が高かったのです。

エンジン回転がコース1周で平均してこれほど違うと、エンジン出力が上がったのと等しく、勝敗を分ける差になるのです。それでチームオーダーにより、プロストもセナの真似をしてみたのですが、上手くいかなかったと言われています。

それほど「セナ足」は、人間離れしたドライビングテクニックであったことを物語っています。

 

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エンジンの最高出力は高回転で発揮されます。ターボでなくNA(自然吸気)であった当時のエンジンでは、低回転トルクがない分、高回転に保つことは重要なテクニックだったのです。この回転馬力とも言われた高回転型エンジンがホンダの真骨頂で、特性を生かすことが出来たのは、セナの天才のなせる業でした。

そのテクニックは、1秒間に6回もアクセルをあおることです。この速さはあおるというより振動に近く、アクセルのフライ・バイ・ワイヤーのコンピュータが「雑音」と勘違いしてホンダのメカニックを悩ませたと言います。そしてレッドゾーンと言われる、過回転を起こすギリギリでエンジンを回し続けていたのでした。

@mashao13が投稿した写真

ハイテクの塊、アクティブ・サスペンション

当時、マクラーレン・ホンダとともに「F1の雄」であった、ライバルのウイリアムズ・ルノーは、アクティブサスペンションを開発して、コーナリングスピードを飛躍的に高めてきました。

登場初期にはマクラーレン・ホンダのホンダエンジンの方が出力で上回っていましたが、ウイリアムズ・ルノーのコーナリングスピードに対抗して、ウィングを立ててコーナリング中のダウンフォースを多くしていました。直線では、ウィングを立てた分の抵抗の大きさを、ホンダパワーで強引にトップスピードを出す方法で対抗しました。

しかし、徐々にルノーエンジンのパワーが上がってくると、マクラーレンは対抗上ウィングを寝かし、トップスピードを稼ぐしかなくなったのです。その分コーナリングでは、滑りやすくなり不利になってしまったわけですが、そんな時、マシンを抑え込むように走らせるセナのテクニックが見ものだったのです。F1ファンにはたまらないものでした。

こうして、ウィリアムズ・ルノーのドライバーであったマンセルとの死闘が始まったのです。

しかし…思えばこれが、セナの死への序曲でした。

1991年、「日本の親父」本田宗一郎死す

セナが「日本の親父」と慕った、ホンダの創業者、本田宗一郎が、1991年ハンガリーグランプリ直前に他界します。ウイリアムズの戦闘力はますます高まる中・・・・・【アイルトン・セナ(3)】運命のイモラ・サーキット➡