【アイルトン・セナ(4)】運命のイモラ・サーキット~最後の別れ

アイルトン・セナ

セナとマクラーレン・ホンダを日本のF1レースファンは忘れないでしょう。ホンダがF1サーカスに参戦するようになり、第2次の黄金期を迎えたころです。ホンダのエンジンは他を圧倒し、マクラーレンは老舗のボディー・コンストラクターであり、両者のコンビは当時最強と目され、そこに天才中の天才と考えられていたセナが乗り、連戦連勝を重ねていきました。



☚【アイルトン・セナ(3)】運命のイモラ・サーキット

1993年マクラーレン・フォードで日本のファンに別れ

アイルトン・セナはウィリアムズ移籍を模索しますが、何と宿敵プロストがウィリアムズの座席を獲得します。セナはマクラーレン・フォードに残りますが、年間チャンピオンをあきらめていました。

そんな中で、1993年F1日本グランプリに現れたセナは、予選2位になると、決勝スタートグリッドのスタートで不利となるインラインの埃を払うべく、フリー走行ではイン側ばかりを走っていました。

不利なインスタートを制してトップに立つと、今度は、セナを後押しするように降り出した雨を利して、セナはトップフィニッシュを決めています。F1デビュー当時から雨のレースにはめっぽう強い「天才セナ」を魅せてくれたレースになりました。もちろん日本のセナファンは大喜びでした。

これが、日本のファンとの別れになりました。

1994年第3戦サンマリノ・グランプリ、まさかの事故死


1994年、アイルトン・セナは念願のウィリアムズに移籍します。しかし、アクティブ・サスペンションが禁止されて、ウィリアムズFW16は戦闘力を失ったばかりか、マシンは不安定であったと言います。

ウィリアムズの独走を止めるレギュレーションの変更であったと理解されており、マクラーレンなどとは桁違いの変化を、ウィリアムズは求められていたのでした。

そんな、マシン開発途中で行われた1994年のイタリア・サンマリノグランプリは、初日から大荒れでした。予選初日ルーベンス・バリチェロが大クラッシュ。大事には至りませんでしたが、セナは病院に見舞っています。予選2日目ローランド・ラッシェンバーガーが死亡しています。F1レースとしては12年ぶりの死亡事故でした。

それらを目の当たりにしたセナは、恋人に「走りたくない…」ともらしていたと伝えられていますが、ポールポジションを獲得して、決勝でスタートします。

他車の事故で再スタート、それも決めてミハエル・シューマッハを従えて走行し、タンブレロ・コーナーでコースアウト、「激突死」してしまいます…。

ミハエル・シューマッハが最も近くで事故の目撃者となっています。レースを走り切ったシューマッハでしたが、レース後、恋人とトレーラーハウスにこもって泣き続けたと言います。

 

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セナの事故の真相

300km/hを超えるスピードで飛び出し、200km/hを超える程度のスピードで激突した・・・・・【アイルトン・セナ(5)】運命のイモラ・サーキット➡