セナとマクラーレン・ホンダを日本のF1レースファンは忘れないでしょう。ホンダがF1サーカスに参戦するようになり、第2次の黄金期を迎えたころです。ホンダのエンジンは他を圧倒し、マクラーレンは老舗のボディー・コンストラクターであり、両者のコンビは当時最強と目され、そこに天才中の天才と考えられていたセナが乗り、連戦連勝を重ねていきました。
画像出典:https://youtu.be/xp8keTtP0L0
1991年、「日本の親父」本田宗一郎、死す
アイルトン・セナが「日本の親父」と慕った、ホンダの創業者本田宗一郎が、1991年ハンガリーグランプリ直前に他界します。
ライバル、ウイリアムズ・ルノーの戦闘力はますます高まる中、セナは喪章をつけてこのレースに臨みます。ポールポジションからスタートして、完全に制します。本田宗一郎の弔い合戦で、不利な状況の中、セナはポール・トウ・ウィンをやり遂げたのでした。
本田宗一郎はセナと会ったとき、「お前のために世界最高のエンジンを作ってやる」と宣言したそうです。
しかし、この年ウィリアムズ・ルノーがセナ獲得に乗り出し、ホンダが懸命に説得して残留させたのですが、「これは間違いだった」と後にセナは回想しています。これがセナの運命の時であったのかもしれません。
1992年モナコ・グランプリ
アクティブ・サスペンションを完成させたウイリアムズ・ルノーは、戦闘能力ではマクラーレ・ホンダを上回って、セナは苦戦を強いられていました。
モナコ・グランプリ、ピットストップを利してトップに立ったセナと後ろから迫るマンセルとの争いは、激しいものでした。
モナコ公道サーキットの特性を熟知して、少ない追い抜きのポイントで抜かせないようにガードしながら走るセナと、明らかに速いマシンを操るマンセルとの激しい戦いでした。そして、その一瞬でも集中力を失ったものが負ける戦いを、セナは制したのです。
この1992年のモナコグランプリでのセナのドライビングは、私が最も彼の天才ぶりを感じたレースでした。刻々と変わるコースやマシンのコンディション等、レースに関わる全てのことを理解し組み立てて、マンセルとのつばぜり合いを制したのです。
この年、セナを残してホンダはF1から撤退します。最後の日本グランプリでは「スペシャルエンジン」をホンダは用意します。
丁寧に手作りで組み立てられたハイパワーのエンジンを、セナに託すのです。しかし、3周でエンジンストール、リタイヤしてしまいます。セナのヘルメットには日の丸が描かれ、コックピットには日の丸の小旗が入っていたと言います。
1993年マクラーレン・フォード
アイルトン・セナはウィリアムズ移籍を模索しますが、何と宿敵プロストがウィリアムズの座席を獲得・・・・・【アイルトン・セナ(4)】運命のイモラ・サーキット➡