東京都議会の百条委員会は続いていますが、初めから【豊洲問題】は存在してなかったと見てよいでしょう。違法性や不適切な石原慎太郎元都知事の判断があったとするなら、「築地市場の豊洲移転」の基本的判断の問題とは別に、工事請負契約の折の談合など、手続きの手法の問題であると言えます。
まして「汚い豊洲の土地を購入したことが不適格である」とする小池都知事の問題提起は「的外れ」いや、名誉棄損にもなりかねない「因縁」とも言えると感じます。
「安全」の概念
市場の問題と限らず、この社会の「安全基準」はどこかに定めていかねば文明そのものが成り立たないものです。原子力発電所(原発)の安全基準でこれまで「安全」とされてきたのに東日本大震災で見事に崩されてしまいました。「千年に一度の大震災」でそれを考慮に入れていなかったのです。「千年に一度の地震が発生するはずがない」と関係者は思い込んでいたことになります。これまでの原発の建設基準にはもっと低い前提があったわけです。世の中の「安全基準」とは本来的にこのようなものです。
交通事故で年間4,000人余りがいまでも亡くなっています。以前は1万人を超えていたこともありました。交通インフラとしてこの安全レベルで良いのでありましょうか?
しかし、「万が一」にも事故になってはいけないのが原発です。最悪、本当に制御できなくなったら日本が滅びます。交通事故では犠牲者が出ても、その利便性は社会的視野の中では犠牲を払っても余りある利益が出ます。そのために「運が悪い」として切り捨ててきたわけです。それが「人間と言う動物の性」であります。人間の文明の本質です。
人間は「科学的基準値」を論理的にはじき出し、ある一定程度の危険を含みながら安全として文明を作り出しています。それが日本では法律であり条例となって、議会で主権者の承認を得て決められています。
「豊洲市場予定地の安全は確保されている」とする判断基準であるわけです。
つまり具体的には「地下水はどのように汚れていようとも、地表と十分な盛土やコンクリートに覆われて分離されていれば、地上は安全と判断する」ことです。そのうえで人々が「安心できるように説得する」のが社会のルールと言えます。ですから「都民ファーストの会」と「小池都知事」がこれ以上「安全でない」とするのであれば、「現在の法律・条例を改定する」動きに出なければなりません。その時には「現在の安全基準が適切でない理由を科学的に提示」できなければなりません。
「安心」の概念
「安心」は人々の中の感覚です。気持ちの問題です。豊洲に築地市場の移転を決めたころ、土壌汚染は当然にあると認識されていました。石原慎太郎元東京都知事は当然に知っていたこと・・・
【豊洲問題は初めから存在しなかった(2)】安全と安心[2]➡
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➡【豊洲移転白紙撤回が小池都知事の目的?(1)】結論ありきの情報操作?
➡【豊洲市場問題「私怨?」(1)】石原慎太郎×小池百合子
➡【豊洲市場問題、議会参考人招致(1)】石原慎太郎「喜んで応じる」
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【豊洲問題から学ぶ(12)】社会の縮図[1]➡
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